30年前、無宗教のご葬儀は想像もできませんでした。
前回のコラムでは、無宗教葬が増えはじめた原因のひとつを高度経済成長期をきっかけに幸せの基準が
心の充足から物質的な豊かさに変わっていき、宗教心が薄れてしまったからなのではないか、と指摘しました。
もうひとつの要因として考えられるのは、やはり高度経済成長期から急激に進んだ核家族化。
宗教心とは、親から子へ、子から孫へ、と受け継がれていくものです。
地方の家には、たいてい先祖代々の位牌や過去帳を安置した仏壇を置いています。
そして毎朝、お仏前にお供えをして、手を合わせました。
そのような些細な日常が宗教心を育んでいたのです。
しかし都市のマンションに暮らしている家族で、仏壇を置いている人はどれほどいるでしょう。
以前、知人の医師からこんな話を聞きました。
水いぼができた幼い子どもが若いお母さんに連れられて診察にきました。
恐がって暴れる子どもを看護師さんやお母さんが押さえつけました。
しばらく格闘を続けましたが、最後に観念したのか、
その子どもは「南無阿弥陀仏」と念仏を呟いて大人しくなったというのです。
優しいはずの母親も自分を押さえつける鬼になった時、
最後に頼るものは仏様しかないと思ったのでしょうか。
驚いた医師がお母さんに聞くと、その子はおばあちゃん子でお寺のお参りにもついていくというのです。
その話を知り、宗教心とは日常生活のなかで育まれていくのだな、と改めて思いました。
同時に、ご葬儀やご法事を疎かにするようになった現代では、宗教心を自然に抱くのは、難しいのかもしれないとも感じました。
宗教心を持つとは、自分ひとりで生きているのではないと肌で感じること。
先祖から続く縁に感謝すること。
物質的に満たされたいまの日本では、人間はひとりでも生きていけるという錯覚を覚えます。
ひとりの力で生きてきたのだから自分の葬儀は好きにするという考えが、無宗教のご葬儀に繋がるのかもしれません。
だからこそ、ご先祖さまに、そして周囲の人たちへの感謝をする場であるご葬儀やご法事を大切にしてほしいと思うのです。
取材・構成/山川徹